中公新書は面白い!②(『北条義時』)

歴史好きにとって中公新書というのは宝の山ですね。「物語〜の歴史」 シリーズや、中国歴代王朝シリーズなど、自分も図書館で借りたり買って読んだり読まなかったり、いろいろ楽しんでいます。

そんな自分も学部1年生の頃は全然中公新書が面白く感じなかったのですが、あの頃は中途半端に専門書にいきなりかじりついて分かった気になるのを繰り返していたので、この手軽さと良さが分かっていなかったんですね。

そして前回の中公新書は面白い!から早くも1年半が経ち(公開日2021年12月20日)、その間に世界も一変してしまいました。本当はシリーズとして定期的に投稿したかったのですが、生来の飽き性&後回し癖&筆不精故にここまで引っ張ってしまうことに。とはいえ、2回目をかけてえらい!という気持ちでなんとか続けたいと思います。


この投稿を書き始めたのは、鎌倉殿の13人が大詰めに入り、小栗旬演じる北条義時がいよいよラスボスの様相を呈してきた時期(2022年11月〜12月ごろ)に、中公文庫の岩田慎平『北条義時』(2021年)と光文社新書の細川重男『鎌倉幕府抗争史』(2022年)を買って夢中で読んだときのことでした。
エンタメ経由で歴史本を読むことはあまりなかったのですが、大河ドラマにドハマりした結果、あれよと上記の2冊を買っていました。

恥ずかしながら大河ドラマ「鎌倉殿」で初めて北条義時という人物(初代執権時政も)を知ったのですが、ドラマの中では、純朴で真面目で正義感の強い青年が、なりゆきから武家の棟梁である源頼朝の最側近となってしまい、彼の手段を選ばない冷徹な政治手法に触れ、初めは反発しつつもその命令に従ううち、次第にそのやり方に飲み込まれていくのですが、組織の論理と個人の倫理との間で揺れる我々企業戦士にもグサッと刺さる内容でした。(個人の見解です。




さて、本書は、鎌倉幕府執権第2代目である北条義時を取り上げています。
義時は、(著者曰く)続く室町・江戸両幕府の2代目同様、影の薄い人物ですが、その理由として、若年のころの活動を裏付ける史料が乏しいこと、また自身は特筆すべき制度の導入などの事績がなく、彼の人生においてハイライトを飾るべき承久の乱でも、実際に活躍したのは子の泰時らであり、その泰時の時代において鎌倉幕府は最も安定した時代を迎えるためだとしています。
しかし、彼に対して、「鎌倉時代を通じて幕府の舵取りを担ったのが北条氏だとするなら、その土台を築いたのは義時である。」と評しています。
ちなみに、義時の出番は本書の後半部分がメインで、前半ではほぼ義時の出番はなく、紹介程度にとどまっています。

同時代の歴史的な状況と義時に対する評価については、彼の時代に確立した執権政治自体に対して、これまで幕府本来の在り方を外れた政治体制であるとされ、影で権力をふるうネガティブな評価がまとわりついてました。
そして、執権政治とは、将軍独裁と得宗専制という2つの異なる専制的な政治体制の間に生じた、合議による政治体制であったとし、執権とは、御家人をはじめとする武士たちの政治的代弁者として制度的に位置づけられた存在であり、幕府政治の最高位権力者であるとされたといいます。
本書の終盤で、幕府の内紛により幼年の鎌倉殿(鎌倉を本拠地とする武家の棟梁で最高権力者≒鎌倉幕府の将軍)を担がなければならなかった北条氏及び鎌倉幕府首脳部が、その体制を維持するために努力した結果、たどりついたのが執権政治であるとしています。


本書は、まず北条義時が世に出る前の保元・平治の乱による貴族政治や東国武士への影響、そしてその結果生じた平家政権の成立と流人源頼朝の登場という当時の政治的状況を概観するところから始まります。
平家政権とは、武力によって打ち立てられ、それは当時としては正統性を著しく欠くものでした。そこには武力による攻撃にさらされる危険が付きまとうため、常に武力によって常に維持されなければならなかったとのこと。これはまあ軍事力による政権の成立とその維持という普遍的な話だなあという印象ですね。
また、平家が独自の政治権力・武力・宗教勢力を一手に抱え込み、王権をも従属させるほどの巨大権力を構築したことは、かえって多方面との深刻な軋轢を生じ、その結果として平家の急速な没落と打倒につながっていくと。

こうした状況の中で、流罪の身でありつつも後白河院近臣という立場を維持していた頼朝は、貴族社会の政局と連動して平家打倒に乗り出してます。
ここで著者は、頼朝の挙兵の背景を「武士が武家社会に挑んだ戦い」や「東国武士の独立志向」といった一般に流通する概念だけではとらえきれないとし、上述のように貴族社会の政局との関係も考慮すべきと主張します。(そうなんだ)

また、当時頼朝の挙兵に従った北条氏についても、単に頼朝の外戚であったからというだけで彼の蜂起を支援したわけではなかったようです。彼らは伊豆国在庁官人として、以仁王の挙兵とその失敗による余波を受け、知行国主の交代(源頼政→平時忠)という変化の影響を被ります。なぜなら、北条氏ら旧来の在庁官人は彼らは謀反人となった前知行国主である源頼政に仕えていたことから、急速にその立場が悪化し、逆に以前から平家と関係の深かった伊東氏などが伊豆での勢力を伸長していくという事態が生じていました。
これが、北条氏が自らの存立のために頼朝を担ぎだして挙兵に踏み切った理由というわけです。

そこからは平家追討と鎌倉幕府の成立、源頼朝の死と13人体制の成立までの話もあるのですが、割愛します。
頼朝死後の幕府の内紛の過程で、北条氏はその地位を上昇させていきますが、その過程の大部分に義時がかかわっています。

頼朝は生前、自身の妻の出身である北条氏と子頼家の外戚である比企氏が協力して頼家を支える体制を構想していたとしていますが、彼の死後急速に利害の対立が激化し、最終的には比企氏どころか子の頼家までも北条氏によって亡き者にされることは予想していたのでしょうか。
あくまでこれは感想ですが、軍才よりも政治的な才に秀で、並み居る強力なライバルを葬ってきた一代の英雄とはいえ、その出自ゆえに血縁に基づく後ろ盾に乏しく、自身の卓越した政治手腕だけでは、在地武士たちの抱える葛藤を解消し、次の代までつなぐことは難しかったというべきでしょうか。

さて、義時はといえば、頼朝の「家子の専一」(最も信頼のおける腹心の部下)であったとされ、頼朝亡き後の13人体制にも初めから名を連ねていました。
そして、北条氏が13人体制の他の有力御家人を滅ぼしていく中で、時政の指揮のもとその先頭に立って活躍していくこととなります。
さらには、北条時政の娘婿であり武蔵守であった平賀朝雅と武蔵国の有力御家人であった畠山重忠の対立が生じると、武蔵国における実権の掌握を狙った北条時政により畠山重忠討伐を命じられます。義時は渋々ながらもその命令をはたしたのですが、その後は父時政と対立することとなり、平賀朝雅を将軍に据えようとする時政を姉政子と協力して排除し、幕府の実権を握ります。そして、将軍実朝のもと幕府の再編を図ります。

時政失脚後の義時は、幕府最大の実力者として時政路線を継承するかのようにふるまったかのように見えました。もともと時政の下でも、いざ乱の鎮圧ともなれば徹底的に敵を攻め滅ぼしているので、やるからには徹底的にやる、どんな手段を使ってでも目的を果たす、そんな中世の東国武士の姿が見えるような気がします。
義時は、和田合戦により最後のライバルであった「三浦の長者」こと和田義盛を討ち果たします。こうして鎌倉幕府内の有力な対抗馬をすべて退けた彼は、何もなければ実朝政権下でその後の幕府運営を考える段階にあったはずでした。実朝に実子がおらず、後継者問題も起きかけており、その対策として後鳥羽院の皇子を後継者に据えることで、朝廷との関係の維持や後継者問題の解決を図ります。ただ、この時点では実朝に子が生まれる可能性もあり、そうなった場合には北条氏の絶対的な権力も揺らぐ可能性があったと著者は述べています。

ただ、そうした状況をすべて覆したのが、頼家遺児の公暁による実朝暗殺でした。
白昼堂々のこの惨劇は、後継者問題を再燃させるばかりか、朝廷の動揺をも招くことになり、後鳥羽院が皇子を実朝の後継者とするのをためらわせます。
将軍の下向を求める鎌倉側に対し、後鳥羽院は義時が地頭職を務めている摂津国長江荘の地頭職停止を通達します。こうした朝廷側の対応に対し、幕府は義時の弟の時房に大軍を率いて上洛させ、軍事的な圧力をかけることで将軍の後継者の下向を要求します。
これにより、左大臣苦情道家の息子三寅(九条頼経)の下向が決まり、これ以後、鎌倉幕府の将軍は京より貴族あるいは皇族を迎え入れることで継承されていきます。

時房の上洛など、後鳥羽院と鎌倉幕府との関係に軋轢を生じさせる事件はいくつかあるのですが、本書を読む限りでは、その直接あるいは具体的な理由が何かというのは正直よくわからなかったですね。
ただ、最終的に後鳥羽院は御家人を実質的に統括して幕府の運営の中心にいる義時に対する不信を募らせ、それが頂点に達したとき、後鳥羽院による北条義時追討の命令を発するに至り、それが承久の乱と呼ばれる大合戦へと発展します。

後鳥羽院による北条義時追討の宣旨は、そもそもが幕府打倒などの目的ではなく、北条義時という個人を標的としたものであったが、これを幕府および御家人に対する朝廷(に巣くう逆臣)の問題としてとらえなおし、御家人たちに鎌倉幕府体制のために立ち上がるように促したのは北条政子でした。ここに、彼女の優れた政治的手腕が見て取れるなと個人的に思いますね。
こののち、義時ら首脳陣は泰時、時房による迅速な出陣と京への進軍を決め、かれらが各地で勃発した幕府方と京方との合戦を制しながら軍団の規模を拡大し上洛することで、幕府方の勢力はどんどん増えていきます。泰時らの活躍により承久の乱の最大の激戦となった宇治川合戦も制し、京都へ進軍、のち西面の武士も壊滅させたため、朝廷側は打つ手を失います。
承久の乱の戦後処理は、苛烈なもので、後鳥羽院に与した貴族は処刑され、後鳥羽院自身も隠岐に流されます。こうして完全勝利を収めた鎌倉幕府は、京都に六波羅探題をおき、京方に加勢した貴族や武士たちの所領を幕府方の御家人に配分します。

後鳥羽院の流刑により、院政の担い手が空席となったため、幕府は行助入道親王(後高倉院)に新たな上皇として院政を行うことを要請し、また前述のように廷臣の処分や人事を決め、新たな天皇を即位させます。
承久の乱の勝利によって、武士による政権が上皇の指名と皇位継承者選定権を掌握し、幕府が朝廷に対して圧倒的な優位に立つこととなります。皇統への関与については、平家政権や室町・江戸両幕府とも共通するものです。
著者は幕府のアイデンティティは軍事力による国家(≒朝廷&天皇)の主語にあり、それがさらに皇位継承にも関与することは、軍事のみにとどまらない影響力を持ち始めたことを意味すると主張します。
ただし、これ以後幕府が朝廷に対して高圧的にふるまったわけではなく、むしろ幕府は朝廷の安全を保障し、その権威を高めるという責務を負うことになり、そのためには、皇統の自立性を保っていることを示す必要もあったとしています。

ここまで、岩田慎平『北条義時』に基づいて鎌倉幕府成立期~承久の乱を概観してきました。
北条義時の時代に、源氏から公家への将軍位のシフトを迎え、さまざまな葛藤の中で執権政治の体制が整えられ、また承久の乱の勝利によって朝廷への圧倒的優位を得たわけです。まさに激動の時代であり、2代目にして実質的な建国者チックな存在だなという印象ですね。
初代がシステム化できなかった部分を2代目が完成させ、対立勢力や潜在的なライバルを潰して次代につなげたという意味でも、やはり彼が土台を築いたという評価に納得できますね。
これも個人的な印象ですが、漢帝国初期の呂氏の王朝簒奪がそのままうまくいっちゃったような形に見えます。いろいろと前提条件が違いすぎるため、めちゃくちゃ飛躍していますが。

時政、義時、泰時という三代にわたって「執権」による政治の在り方がどのように変化したのか、またそれが当時の朝廷や武家社会とどうかかわっていたのかについては、まだ十分に咀嚼できておらず、依然として大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の世界観から抜け出せていないのが現状です。制度や権力のあり方についてみていかないうちはまだまだわからないことだらけですね。ただ、日本史という比較的史料や研究文献に恵まれた分野の研究を眺めることで、中央アジア史を見るときの視座にもなんとなく変化が生じている気がします。人間社会はどこも同じという極端な見方は論外ですが、自分の専門分野の何が一般化できて何が特殊なのかを考える際のヒントにはなるのかなと思います。


ちなみに、副読本として買った細川重男『鎌倉幕府抗争史』については、著者の独特な言い回しをSNS上での引用で見たのが決め手でした。
北条時政による「比企の乱」の鎮圧について、細川は北条氏を「サヨリ」、比企氏を「軍艦」にたとえ、本来、乱勃発前の比企氏にとって北条氏は比較にならないレベルであったため、陥れる必要などなかったのであるとし、その圧倒的に不利な北条氏が比企氏を打倒したことについて、「サヨリが軍艦に勝った」という比喩を用いて語っている部分はじわじわと面白い。「(比企能員が北条氏を)ナメていた」などの平易(?)な文体により、武家政権内部の権力闘争が急に田舎のヤンキーの喧嘩のように見えてきてしまうのです。

以上、長々と述べてきましたが、今後も中公新書から得られる養分を可能な限り吸って、この俗世を泳いで行きたいところです。





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