【読書メモ】中央アジアのお茶の歴史に関する論考

留学ブログとか言って始めたのですが、あまりの更新の遅さに留学はおろか大学院すら卒業してしまいました。
今は某所で食い扶持を得つつ、日曜歴史家モドキとしてこの宇宙の片隅に一定の体積を占めています。

さて、個人的なことですが、最近ЯллаのЧайханаにハマってずっと聴いています。

なんというんでしょうか、曲調といい、歌詞といい、あのひどく懐かしくなるような感じは。
経験したことはないけれど、1980-90年代の旧ソ連圏、とりわけウズベキスタンの雰囲気が香ってくるような気がしますね。

「月のない夜など何のため チャイハナのない人生などなんであろう」
という心に沁みる歌詞がいい曲です。メロディーの儚げな感じもグッときます。










Ялла Музикальная Чайхана、CDジャケット。(Дискография(https://www.disc-a.ru/catalog/r_via/yalla/d.html)より)




というわけで、今回は茶にまつわる論文について紹介していきます。

セルゲイ・アバシン「中央アジアにおける茶:18-19世紀の飲料の歴史」


Абашин С. “Чай в Средней Азии: история напитка в XVIII-XIX веках.”, С. А. Арутюнов, Т. А. Воронина, (
ред.) Традиционная пища как выражение этнического самосознания. Наука, 2001. 204-228.

本論文は、S・A・アルチュノフ、T・A・ヴォロニナ編『エスニック・アイデンティティの表現としての伝統的な食』
С. А. Арутюнов, Т. А. Воронина, (ред.) Традиционная пища как выражение этнического самосознанияというタイトルの論集の1章を構成するものである。


表紙(С. А. Арутюнов, Т. А. Воронина, (ред.) Традиционная пища как выражение этнического самосознания. Наука, 2001.)
この著作は、主にロシア帝国および旧ソ連圏の地域を対象とした食文化とアイデンティティの問題を扱っている。







アバシンの本論文は、簡単に言えば中央アジアにおける茶の歴史をまとめたものだが、それだけに止まらず、定住地域への遊牧民を媒介とした文化の伝播や、政治的・軍事的に遊牧民が果たした役割、そして人の移動によって引き起こされる文化変容と文化の受容に関する記述も含んだかなり密度の濃いものとなっている。


著者のセルゲイ・アバシン氏は、ロシアの研究者で、歴史学と民族学の方法論を横断的に用いながら、中央アジア地域の地域研究において多くの研究を発表している。この論文の他にも、ソビエト時代の村落に関する研究(Совиетский кишлак)や、ロシア帝政期の中央アジアにおける統計の問題を指摘した研究などがある。

 「中央アジアにおける茶」論文において個人的に興味深いのは、アバシン氏が茶の歴史を紐解くと同時に、中央アジアにおけるエスニックな集団の移動についても力点を置いている点である。
読者は、途中まで茶の歴史について読んでいたことを忘れるのではないかというくらい中央アジアにおける諸集団の移動とその原因、さらには移住先の社会における影響についての興味深い記述を目にすることになる。

 とはいえ、茶の歴史そのものに関する記述も、それに付随する中央アジア史の動態の記述もどちらも面白く、ロシア語が読める方はぜひ通して読んでみることをお勧めする。
(もしロシア語が読めないけど読んでみたいという方は、私の拙い訳文(部分的)をなんらかの形でお見せすることもできますので、気軽にご連絡ください。)


要約


序文


アバシンは、はじめにヨーロッパへの茶の伝播について言及し、その起源が1517年に遡ること、中国からポルトガル人によって運ばれたこと、そして当初は上流階級の特権的な飲料だったが、次第に市民階級に広まっていったことに簡単に触れている。
茶の取り扱いの規模が大きくなるにつれて、茶は経済的に有益な事業となり、イギリスと北米植民地との間の戦争の一因になるほどでもあったことが手短に言及される。
(※中国歴代王朝でも茶は専売商品であり、周辺地域との交易において大きな利益を生み出すものであった)

ついで、陸路を経由してロシアに入った茶について触れ、1638年に西モンゴルの支配者から初めて茶がもたらされたという記録を紹介している。18世紀末には、ロシアにおいても茶は都市住民の間で広く飲まれるようになった。

それでは、中央アジアへの茶の伝播についてはどうだろうか
アバシンによると、中央アジアの茶について最初に言及したのは、ホルシュタイン公の使節団の一員としてイスファハーンに滞在していたアダム・オレアリーで、

ツァイ・ハッタイ・ハーネ(Tzai Chattai Chane)」とは、すなわち外来の沸かして飲むお湯、黒い(黒みがかった)  水、ウズベクのタタール人によって中国からペルシアへ運ばれた植物を煎じた汁を飲む店である。中国人が「茶」と名付けたその植物を、ペルシア人はきれいな水で煮出し、アニス、ウイキョウ、そして僅かに丁子(クローブ)を加える」((露語訳)П. Барсов, 1870. 726-788.)

と述べている。
 すなわち、17世紀にはすでにウズベクのタタール人(中央アジアのテュルク系の商人のことか)が茶を商品として扱っていたことがわかる。また、ペシェレワПешереваの議論を引用しつつ、中央アジアに茶が広く伝わり始めた時期について以下のように指摘している。

ペシェレワは、「ブハラを除く中央アジアの諸地域では、19世紀第2四半紀(1826-1850年)の初め頃に茶が広まったとし、平野部の農村地域では19世紀末ごろに、タジキスタンの山岳地域では20世紀に入ってからであった」とする(Пещерева Е.М. Гончарное производство Средней Азии, Москва; Ленинград, 1959. С. 284.)ブハラでは、例外的に18世紀にはすでに貴顕たちの間では茶が飲まれていたという。

まとめると、中央アジアにおいて茶が広まった時期はそれほど早かったわけではなく、ブハラを除けばせいぜいが19世紀以降になってからだった。
ただし、オレアリーの記述からもわかるように、それ以前には茶が伝わっていなかった訳ではない。
ただ、伝播と普及には時間的な隔たりが存在するということだろう。

茶の伝播・普及の経路と担い手


ここでアバシンは新たな問題を提起する。

すなわち、上記の「いつ」という問題の他に、「どこから」という問題である。

中央アジアへの茶の伝播においては、「中国人」(ここでは漢人に限らず満人や清朝麾下のモンゴル人なども含む)の存在が考えられる。

たとえば、18世紀中葉、清朝がコーカンドと関係を結ぶようになった時期に、「中国人」の使者がコーカンドの支配者イルダナ・ビーに「繻子と茶」を贈り物としてもたらしたという記述が存在する(Кузнецов B.C. Цинская империя на рубежах Центральной Азии (вторая половина XVIII - первая половина XIX в.), Новосибирск, 1983. С. 56.)。歴史を遡れば、漢王朝の時代から、西域として知られた中央アジアと漢地の国家との関係は断続的に続いてきた。

ただし、アバシンは、「中国人」が中央アジアへの茶の伝播の重要な担い手であったということについては疑問符を付している。中国と中央アジアの住民間の直接の交流はそもそも継続的なものではなかったし、そうした交流にしても、基本的に政治的・軍事的対立の元に行われてきたためである。

カルムィクによる茶の伝播


これに対して、モンゴルの影響力の大きさを指摘しているのがペシェレワである。特に西モンゴルのカルムィク人、すなわち「ジュンガル」または「オイラト」として知られる人々が茶の伝播に大きく関わったとする。


カルマク(カルムィク)の中央アジアへの進出


(これ以降、茶の歴史は一旦脇に置かれ、中央アジアへのカルムィクの移住とその影響が語られる。)

17世紀以降、西方に対しても拡大を始めたジュンガルは、カザフを圧迫し、さらに南方の定住地域にも勢力を広げた。
18世紀前半にはフェルガナにおいてコーカンドの政権とジュンガルとの戦闘が発生したとする史料もあり、またジュンガルはブハラに対しても圧力加えていたとされる。
当時のブハラでは、ジュンガルの脅威を前にして、「マーワラーアンナフルにおける権力がウズベクからカルムィクへ移るに違いない。かつてティムール朝からウズベクに移ったようにという予言が流行したほどだった(Тарих-и Бадахшани ("История Бадахшана"), Москва, 1997. С. 35, 37-38; Материалы по истории Средней и Центральной Азии X-XIX вв., Ташкент, 1988. С. 265; Миклухо-Маклай Н.Д. Описание таджикских и персидских рукописей Института народов Азии. Москва, 1961. Вып. 2: Биографические сочинение. С. 153. )


また、こうした中央アジアへのジュンガルの侵攻に伴い、オアシス地域の諸都市においてカルムィク人の定着が起こっていたことにも触れている。
17世紀前半から、「カルマク」と呼ばれた西モンゴルの人々は中央アジアに住み着き、イスラームを受け入れたものもいたという。17〜19世紀にかけて中央アジアに住み着いたジュンガルの一部は、軍事エリート層としてブハラの宮廷で大きな影響力を持っていた。

「カルムィク」というエスニシティは20世紀初頭の統計資料にも見られ、当時フェルガナには200-600人のカルムィクが居住していたという(Материалы по районированию Средней Азии. Ташкент, 1926. Кн. 1: Территория и население Бухары и Хорезма. Ч. 1: Бухара. С. 211.)。

カルムィクによる遊牧民と都市の貴顕たちへの茶の伝播


カルムィクが17〜19世紀の中央アジアの歴史において重要な役割を担っていたことを論証したのちに、アバシンはようやく茶の伝播について言及を始める。以上のように執拗なまでにカルムィクに関して説明してきたのは、カルムィクがもたらした文化の中に「茶」が含まれているからである。
とりわけ、都市に居住し、君主とも近しい地位を得ていたカルムィクの貴顕たちは、君主やエリート層の文化にも影響を与え得たのだろう。

以降、カルムィクがもたらしたであろう喫茶の習慣が記述される。

現在のウズベキスタンでも、「シル・チョイшир-чой」と呼ばれる特別な茶の飲用が知られているが、このシル・チョイは「カルムィクの茶」として知られていたという(Пешерева Е.М. Гончарное производство Средней Азии. Москва; Ленинград, 1959. С. 285.)。

シル・チョイは、飲み物というよりも、むしろ特別な食べ物として供されてきた。その作り方は、湯沸しで茶を煮出し、塩、ミルク、カイモク(脂肪分の高いクリーム)あるいは油、場合によっては溶かした羊の脂(ヨグ)を加える。最後に汁を茶碗に注ぎ、そこに刻んだパンを入れ、食すというものである。

茶がどのように中央アジアで消費されていたかについて、アバシンは19世紀に中央アジアに滞在したヨーロッパ人たちの記録を紹介している。日常的に飲まれる茶とシル・チョイはどちらも好まれており、茶に砂糖を入れて飲む習慣もすでに存在していた。

現在のアフガニスタン全域でもこうしたシル・チョイに似た飲料(食物?)が飲まれ、また北カフカースやダゲスタンでも同様の供され方をしていたという。
シル・チョイに必要なミルクやカイモクは、牧畜によって得られる製品であり、遊牧民の存在を抜きにしては考えられない。
これに関連して、M・L・ジュコフスカヤは、茶の出現によって、余ったミルクをミルクティーの飲用に充てるとができるようになったと指摘する(Жуковская H.Л. Пища кочевников Центральной Азии (к вопросу об экологических основах формирования модели питания),СЭ. 1979. № 5. С. 72-73.)。

こうした茶の利用は、”ムスリム世界”にとどまらず、仏教徒(チベット仏教)の間でも広まっていた。茶が仏教の宗教儀礼に不可欠でもあり、16世紀末から17世紀にかけて、モンゴル人の1日の食事における必需品となったという。彼らにとって茶は「日持ちのする食料」であった。


以上では、カルムィクによる喫茶文化の伝播に関する議論を見てきた。ただし、これらはあくまで都市や遊牧民の貴顕たちの間での話であり、大多数の都市住民農村の人々の間にどのように茶が広まったかについてはまだ説明が不十分である。

東トルキスタンの住民を媒介とする茶の伝播・普及


続いてアバシンは、都市住民農村の人々に茶が広まった経緯について論じていく。

中央アジアにおいて茶が日常飲料へと変化したのは、東トルキスタンのテュルク系ムスリムたち(中央アジアにおいてはカシュガリーKashgharīと呼ばれ、20世紀以降はウイグルと呼ばれた)とカルムィクたちとの頻繁な交流によるところが大きかった。

東トルキスタンの諸都市、すなわちカシュガルやヤルカンドなどでは、早くからジュンガルの影響を受けていたこともあり、西トルキスタンよりも茶の普及が早かった。これらの都市の住民たちの間では、特に「カルムィクの茶」が好まれていたという。

アバシンはここで、19世紀に知られていた伝説を紹介している。
曰く、中国との境界近くの村落に立ち寄ったスーフィーが、ある家の主人に茶でもてなされた。茶を飲んだ途端に疲れが吹き飛び、スーフィーは、「この茶という飲み物はまるで天国の飲み物だ!(Вот это напиток! Его место в рае!)神からの賜り物だ!」と喜んだ。彼は旅を急ぎ、いく先々で人々に茶の話をした。茶を飲んだおかげで、彼は100歳まで生きたとされる。

この伝説において、以下の2点が注目に値する。
①スーフィーが茶に出会ったのが、「中国との境界」、すなわち東トルキスタンであったこと
②主要な登場人物がスーフィー、すなわちイスラームの神秘主義の信奉者であったこと

以下では、こうした茶と東トルキスタンとの結びつき、それに対するジュンガルとスーフィー(神秘主義の導師たち)の影響を論じていく。

アーファーク・ホージャとジュンガル


現在のウズベキスタン南東部に位置するフェルガナにおいて、ソキトсокытという儀礼が行なわれている。ソキトは東トルキスタンからの移住者たちの子孫によって行われておりこの儀礼は、東トルキスタンの政治史において重要な役割を果たしたスーフィーの指導者であるアーファーク・ホージャに捧げられたものとされる。

興味深いのは、このソキトの儀礼の中でシル・チョイが振舞われることである。

なぜアーファーク・ホージャに捧げる儀礼で「カルムィクの茶」が振舞われるのか、これについて、アバシンは政治史をひもときながら説明している。

アーファーク・ホージャは、17世紀に東トルキスタンを支配していたチャガタイ・ハン家の内紛に関わっており、ジュンガルに助けを求めた。伝承によると、アーファーク・ホージャはチベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ5世に会い、彼の支持を得ることに成功した。ダライ・ラマの支持者を自認するジュンガルは、アーファーク・ホージャを支援し、彼の助けによって東トルキスタンを属国とした。また、アーファーク・ホージャは、東トルキスタン全域でイスラームの守護者とみなされるようになった。

東トルキスタンからフェルガナへの人口流入


東トルキスタンの住民は、政治的にジュンガルの影響を受けるとともに、茶という文化をも受容した。
これに続き、18世紀中葉から19世紀にかけて、東トルキスタンの住民がフェルガナに大規模に流入することになる。主に、清朝による東トルキスタンの征服やその後の清朝に対する反乱といった政治的な動乱の際に、戦乱を避けて避難した人々がフェルガナに移り住んだ。

東トルキスタンの住民の大規模なフェルガナへの移住は、フェルガナの人口動態にも大きな影響をあたえた。

19世紀中葉には、東トルキスタン出身者は少なく見積もってもフェルガナの人口の10%以上に上っていたと考えられる。
東トルキスタン出身者の政治的な影響力も大きかったようで、彼らの中には、コーカンド・ハーン国において最高位の軍司令官になるものもいた(ユースフ・ホージャ・ミンバシ・カシュガリーという人物が、コーカンドのミンバシ(千人長の意で、コーカンド・ハーン国の最高司令官を意味する)の地位にあった(Бейсембиев, Т. К. "Тарих-и Шахрухи" как исторический источник, Алматы, 1987, 80.)。

東トルキスタンからフェルガナへの大規模な住民の流入は、当然フェルガナにおける日常的な茶の飲用を促した。19世紀には、東トルキスタン出身者たちは、フェルガナで「最も多く茶を消費する」存在であったとされる。周辺住民への茶の普及において、彼らの影響は大きかっただろう。

時代が下るとともに、シル・チョイはあまり飲まれなくなり、変わって湯で煎れた茶が日常的に飲まれるようになった。このことをアバシンは以下の理由によって説明している。

①ロシアの中央アジア併合に伴い、遊牧民の定住化が進み、牧畜製品の供給が減ったこと

②19世紀初頭にロシアからサモワールが伝わり、手早く簡単に茶を煎れられるようになったこと

また、ペシェレワは、茶の受容と社会的な位置づけについて以下のように述べる。
すなわち、茶は、初めは男性が社交的な場や商売の場で飲むものとして受容され、次第に家庭で女性や子供にも飲まれるようになったとする(Пешерева, Гончарное производство Средней Азии. Москва; Ленинград, 1959. С. 283, 284.)。

結論

以上から、アバシンは茶の中央アジアへの伝播を複数の段階に分けている。

西モンゴル(ジュンガル、オイラト)の中央アジア進出、侵略と浸透により、遊牧民と都市の貴顕たちの間に茶の習慣が広まった。

②茶を中央アジアに普及させるのに大きく貢献したのは、東トルキスタン出身者たち。東トルキスタンの政変に伴う西トルキスタンへの移住によって、早くからジュンガルと接触し、喫茶文化を受容していた東トルキスタン出身者が、中央アジアに茶の習慣を広めた。

①の段階では、茶がエリートの間に広まっただけにすぎなかったが、②の段階を経て、茶が庶民の間でも飲まれるようになった
アバシンは、これを引き起こした要因として「農業・自然経済およびローカルな孤立した経済から、工業化、商業的な経済へ、つまり地域市場とグローバルな市場が結ばれるような変化が起きたこと」を指摘している。


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論文では最後にちらっと触れられているだけですが、現代において伝統文化として受け入れられているもの、とりわけ手工芸品や食文化に関わるものが、工業化やグローバル化に伴う原材料の輸入の増加によって庶民の手の届くものになっていったという身も蓋もない話がでてきて、やはりそういうものかという感じもしました。

それを考えると、冒頭で紹介したЧайханаの「チャイハナのない人生など」という歌詞についても、19世紀以前の人々にとって人生の意味はなんだったのかという意地悪な疑問を抱くことができますね。
おそらく僕はマイハナ(酒屋)だったんじゃなかろうかと思います(適当)。




ちなみに、論文中で触れられていたのですが、本筋や結論とあまり関係ないので割愛した部分を以下に載せておきます。

緑茶は20世紀になってようやく中央アジアに普及したそうです。それまでは発酵した茶が常用されていた模様。また、中央アジアでは緑茶は「冷たい」飲み物、紅茶は「温かい」飲み物とされ、熱が出たら緑茶を、体が冷えているときは紅茶を飲むと良いということがよく言われるとか。

(※この考え方は現代でもある程度通用するようで、知り合いのウズベク人からも似たような話を聞いたことがあります。曰く、「心拍数が早かったり、体温が高い人は緑茶を飲んだほうが良い」とか)
そのためか、緑茶は暑い南部で、紅茶は寒い北部でよく飲まれているといいます。

加えて、茶を煎れる際に、ティーポットから茶碗に茶を注ぎ、再びティーポットに戻し、また注ぐという例のアレ、中央アジア経験者なら一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。あれは、もともと茶が長距離輸送に向くように「磚茶」と呼ばれる形にカチカチに固められており、湯の中で茶葉の塊をほぐすために行われていたというのがもっぱらの噂ですね。
そのときのかけ声は、ロイ、モイ、チョイ(泥、油、茶)だと聞いた覚えがあるのですが、その辺の事情に詳しい方がいたらコメントください。

ちなみに、投稿者は以前モンゴルで乗馬の旅に参加したことがありましたが、現地の牧民が塩入りの紅茶を出してくれたことがあったのを思い出しました。最初はウッと思ったんですが、カラッとした夏の草原では本能的に体が受け付けたのか、結構ゴクゴク飲めたと記憶しています。
ところ変われば茶も変わる。ただし喫茶の習慣は変わらない、といったところでしょうか。

最後に

全体的に興味深い論文で、読み返しても面白いなという感想ですが、一点だけ気になるところが。

中央アジア(パミール以西)への茶の伝播にしても、東トルキスタンへの茶の伝播にしても、カルムィク、すなわちオイラトやジュンガルが大きな役割を担ったことはよくわかったのですが、なぜ東トルキスタンにおける茶の普及が西トルキスタンよりも進んでいたのか、この論文を読んだ限りでは単にジュンガルと接触した時期が早かったからにすぎないように思えます。

言い換えるならば、なぜ東トルキスタンではジュンガルとの接触によって住民の間に茶が普及したのかとも言えるでしょうか。

もちろん、東トルキスタンにおいて聖者を媒介として茶が普及したことを示唆する伝承は興味深いのですが、史実として、茶の普及と聖者やシャイフたちの活躍がどこまで影響を持ち得たのかは論証しづらいのではないかと思いました。
17〜18世紀に東トルキスタンで茶が普及していたという部分も、論拠が薄いような印象です。
これについては僕の読みが甘いだけかもしれません。

とりあえずは、本論文であげられていた参考文献をたぐってみて、どこまで実証的に論じているのかをみていきたいですね。なかなかそこまでする時間が取れるかは微妙ですが。

今回ブログを書くにあたって読み返してみて、4年前の自分の読解力の足りなさに気づくとともに、改めて内容の面白さを発見できて充実感がありました。

「モノの歴史/世界史」を紐解くような著作では、残念ながら中央アジアはあまり言及されない傾向があるのですが、こうした研究を紹介していくことでわずかながら光を当てられたらいいなと思います。次回もこういうテーマになるとは限りませんが。

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