投稿

2021の投稿を表示しています

中公新書は面白い!(『アケメネス朝ペルシア』、『物語 アラビアの歴史』)

イメージ
 最近読んだ/買った面白い中公新書の話 最近は専門書をじっくり読む時間が取れておらず、もっぱら新書などをつまみ読みしている感じですが、やはり中公新書はよいですね。 最近読んだ本だけでも、阿部拓児2021『アケメネス朝ペルシア—史上初の世界帝国— 』、蔀勇造2018『物語 アラビアの歴史』の両者はめちゃくちゃ面白い/かったです。 阿部拓児2021『アケメネス朝ペルシア—史上初の世界帝国— 』 日本初(講談社のペルシア帝国は一回忘れる)のアケメネス朝本であり、専門家の丁寧かつ読みやすい筆致に終始魅了されっぱなし。特に、研究史の大半を占めるギリシア語などのヨーロッパ側の史料と、しばらく前から研究が発展してきたペルシア側の史料を比べながらの歴史叙述は痺れました。 普通こういうややこしい作業は門外漢が読んだら結構混乱すると思うのですが、要点を押さえた簡潔で読みやすい文章とユーモアのある説明は、まどろっこしさを感じさせずにスラスラと読み進むことができ、まさに名文だなと。 また、アケメネス朝に関する歴史叙述について、「この時代はこの著者がどのように描いていて、それがどのような形で残っている」という部分をはじめに説明してくれるため、じゃあこれも読んでみようかなというのが多い印象。歴史学を学んできた人間にはとても嬉しい仕様になっています。というか、ほぼ素人の感想ではあるのですが、新書でここまでのことをやりながらちゃんと読ませる文章になっているのが凄すぎる。 上記に加えて、オリエンタリズムにも目を配っているところも、まあ題材が題材だけに当然っちゃ当然ですが、個人的にすごくよかったですね。アケメネス朝を通して同時代のギリシア人が世界や自身をどう捉えていたか、そしてそれがヨーロッパの歴史観においてどのように継承されてきたか、またアジアを見る際のそうしたフィルターが現代において持つ影響など、示唆に富む内容が多かったと思います。 例えば、ペルシア戦争以後、ギリシア人たちが自分たちが「打ち負かした」ペルシアをどのように見ていたかについて、特に興味深い以下のような記述がありました。 ギリシア人たちは、彼らが打ち負かしたペルシア人を、自らとは正反対の蔑むべき否定的な存在として作り上げていった。それと同時に、ギリシア人にとってペルシア帝国、とりわけその頂点に立つペルシア大王は、ギリシアをはるかに凌駕す

いつ/いかに/どんなテクストを書けるのか。テクストを生み出し続けるにはどうすればいいか。

最近文章を書くということについて色々考えている。 仕事で使う事務的な文章ではなく、人生のアディショナルな領域において、創作であったり、自分の勉強の成果をアウトプットすることであったり、そうした意味でのテクストライティングについてである。  文章を書く技術が非常に不足していると自分では認識している。より正確に言えば、書こうとする気負いだけで実際には書けないということが往々にしてあり、また計画と進捗管理でもって文章を生み出すという行為を自分の制御下に置くということが極端に苦手である。 この文章を書いている今も、衝動的に思いついて、他のやりたいことを全部放り投げて、思考の断片が消えないうちに必死で掬い上げようとしている最中だ。 また、文章を生みたいという衝動と実践との乖離については上述の通りだが、より具体的な文章を書く技術の話も同じである。 これはレポートでも卒論でも修論でもずっとそうだったのだが、なにを書きたいか/書くべきかを具体化できないまま、頭から終わりまで直感とフィーリングで順番に文章を書き続けていき、最後につぎはぎと脱線だらけの奇妙なキメラを生み出してしまうのだ。 文章をいかに構築するか、これは非常に重い問いである。もちろん訓練あるのみというのは分かった上で、ではその訓練をいかに積むのか。 読み易くわかりやすい“ただの文章”ではなく、論理と綿密な思考に裏打ちされた一つのテクストを生み出していくにはどうしたらよいか。 一つにはテクストの断片を大量に生み出し、自分の思考をまず羅列していく、そこから主張の核を取り出し、文章を肉付けし、論理を通し、副次的な情報を付け加えていくのがよいのだとなんとなく思う。ただ、まずこのテクストの断片をどうやって生み出すかという問いも生まれる。 学問の世界から脇道に逸れたままぼーっと生きていると、テクストの生み手でありたいという気負いは徐々に徐々に衰えていき、日常を繰り返し他者の作ったコンテンツを消費するだけの、物言わぬ受け手になってしまう。このことがたまらなく不安なのだ。 いかに/いつ/どんなテクストを構築するか。テクストを生み出し続けるにはどうすればいいか。その糧となるテクストをいかに読み続けるか。 幸いにも、自分は仲間と共に読書会をやることで、ギリギリ学問の世界に接点を保てており、もしかすると今が最後の好機であるということを理解して

【読書メモ】中央アジアのお茶の歴史に関する論考

イメージ
留学ブログとか言って始めたのですが、あまりの更新の遅さに留学 はおろか大学院すら卒業してしまいました。 今は某所で食い扶持を得つつ、日曜歴史家モドキとしてこの宇宙の片隅に一定の体積を占めています。 さて、個人的なことですが、最近ЯллаのЧайханаにハマってずっと聴いています。 なんというんでしょうか、 曲調といい、歌詞といい、あのひどく懐かしくなるような感じは。 経験したことはないけれど、1980-90年代の旧ソ連圏、とりわけウズベキスタンの雰囲気が香ってくるような気がしますね。 「月のない夜など何のため チャイハナのない人生などなんであろう」 という心に沁みる歌詞がいい曲です。メロディーの儚げな感じもグッときます。 Ялла Музикальная Чайхана、CDジャケット。(Дискография(https://www.disc-a.ru/catalog/r_via/yalla/d.html)より) というわけで、今回は茶にまつわる論文について紹介していきます。 セルゲイ・アバシン「中央アジアにおける茶:18-19世紀の飲料の歴史」 Абашин С.  “Чай в Средней Азии: история напитка в XVIII-XIX веках.” , С. А. Арутюнов, Т. А. Воронина, ( ред.)   Традиционная пища как выражение этнического самосознания . Наука, 2001. 204-228. 本論文は、S・A・アルチュノフ、T・A・ヴォロニナ編『エスニック・ アイデンティティの表現としての伝統的な食』 С. А. Арутюнов, Т. А. Воронина,  ( ред.)  Традиционная пища как выражение этнического самосознания というタイトルの 論集の1章を構成するものである。 表紙(С. А. Арутюнов, Т. А. Воронина,  ( ред.)   Традиционная пища как выражение этнического самосознания . Наука, 2001.) この著作は、主にロシア帝国および旧ソ