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【読書メモ】中央アジアのお茶の歴史に関する論考

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留学ブログとか言って始めたのですが、あまりの更新の遅さに留学 はおろか大学院すら卒業してしまいました。 今は某所で食い扶持を得つつ、日曜歴史家モドキとしてこの宇宙の片隅に一定の体積を占めています。 さて、個人的なことですが、最近ЯллаのЧайханаにハマってずっと聴いています。 なんというんでしょうか、 曲調といい、歌詞といい、あのひどく懐かしくなるような感じは。 経験したことはないけれど、1980-90年代の旧ソ連圏、とりわけウズベキスタンの雰囲気が香ってくるような気がしますね。 「月のない夜など何のため チャイハナのない人生などなんであろう」 という心に沁みる歌詞がいい曲です。メロディーの儚げな感じもグッときます。 Ялла Музикальная Чайхана、CDジャケット。(Дискография(https://www.disc-a.ru/catalog/r_via/yalla/d.html)より) というわけで、今回は茶にまつわる論文について紹介していきます。 セルゲイ・アバシン「中央アジアにおける茶:18-19世紀の飲料の歴史」 Абашин С.  “Чай в Средней Азии: история напитка в XVIII-XIX веках.” , С. А. Арутюнов, Т. А. Воронина, ( ред.)   Традиционная пища как выражение этнического самосознания . Наука, 2001. 204-228. 本論文は、S・A・アルチュノフ、T・A・ヴォロニナ編『エスニック・ アイデンティティの表現としての伝統的な食』 С. А. Арутюнов, Т. А. Воронина,  ( ред.)  Традиционная пища как выражение этнического самосознания というタイトルの 論集の1章を構成するものである。 表紙(С. А. Арутюнов, Т. А. Воронина,  ( ред.)   Традиционная пища как выражение этнического самосознания . Нау...

野家啓一2015『科学哲学への招待』 各章要約

しばらく前に、読書猿さんのブログ似合った各章を3行以内で要約するというのをやってみようと思ってやりっぱなしだったのが出てきたので、せっかくだからブログの方にあげてみようと思う。ただ僕はこの辺の知識が全くないため、本当に各章の重要そうな言葉を中心に文章をまとめてみただけの形だけれども。 本は野家啓一『科学哲学への招待』 本書は科学史の概説のようなもので、古代における科学のあり方と、近代において科学の方法論やその定義がどのような過程を経て確立されてきたかを中心的に述べている。その中で起こった論争など、僕にはかなり難しくてちんぷんかんぷんなところも多かったけど、12章の科学のパラダイム論に関する論争や、13章で扱われるソーカル事件などは耳にしたことがある人も多いと思うので、読んでみると面白いのではないだろうか。 各章要約 第一部 科学史 第1章 「科学」という言葉 科学という訳語の意味と、その西洋社会における位置付けの変化を解説。日本では明治期に、世界観や自然観としてよりも個別分野の専門的知識として科学と技術を受容。西洋では両者は古くから独立の概念だった。 第2章 アリストテレス的自然観 古代ギリシアにおける自然哲学の発展により、天文学と運動論(→物理学へ)の理論が形成され、コスモロジーが体系化(地動説、月を境とする宇宙の2つの世界)。しかし、古代ギリシアで確立されたセントラル・ドグマにはそれぞれ欠陥があった。 第3章 科学革命(I)——コスモスの崩壊 12世紀以降、古代ギリシアの宇宙論の受容と発展。キリスト教思想とアリストテレス哲学との融合。のちにコペルニクスが、「一様な円運動」を遵守するため宇宙論の転換を行い、科学革命の端緒に。ついでケプラーが、惑星の完全な円運動が誤謬であることを証明し、従来の天体の幾何学から天体の物理学への道を踏み出した。 第4章 科学革命(II)——自然の数学化 ガリレオによる近代物理学の位置付けは、運動論の刷新にとどまらず質的自然観から量的自然観への根本的な転回を促した。自然を数学的構造を持つものとし、質的な性質を科学的な観測から退けた。論証と実験という方法論もこの時期に確立。ニュートンは天文学と運動論を「万有引力の法則」によって統一し、古代宇宙論に引導を渡した。 ...

バルトリドによるコーカンド・ハーン国史概説和訳(The Encyclopaedia of Islam)

はじめに 約1年ちょっとぶりの更新になりますが、前回までとは違って専門に関わる内容を投稿したいと思います。 と言っても自分のオリジナルな文章ではなく、 約90年前に出版されたコーカンド・ハーン国史の概説の和訳です。具体的な内容については訳文の方を参照していただきたいですが、コーカンド・ハーン国についての簡単な説明は、高校世界史レベルだと「ティムール朝滅亡後の中央アジアのウズベク3ハン国の1つ」と説明される国家だったと思います。 以下、簡単に補足しておきます。 コーカンド・ハーン国は、フェルガナ西部で勢力を持っていたウズベクの遊牧集団を中心に成立した国家で、1709年ごろから1876年まで存続し、最盛期には、現在のウズベキスタンのフェルガナ盆地を中心に、タジキスタン、キルギス、カザフスタンおよび新疆ウイグル自治区の一部を含む地域に勢力を及ぼしていた。 王朝の創始者はシャールフ・ビーと呼ばれる人物で、ウズベクのミン部族の出身である。彼の名前をとって、コーカンドの政権の支配者の血統をシャールフ統(Shahrukhid)と呼ぶ研究者も(Levi S C.  The Rise and fall of Khoqand Khanate: Central Asia in the Global Age 1709-1876 , University of Pittsburgh Press, 2017.)。 コーカンド・ハーン国 の最初の君主の称号は「ビー」であり、通称であるコーカンド・ハーン国に冠されている「ハーン」という称号とは異なっているが、この辺りの経緯は、バルトリドの説明を参照。(後日私の方でこの辺をブログにかけたらいいなと思います。また時間がかかりそうですが......)。 本記事の訳文は、イスラーム百科事典(The Encyclopaedia of Islam)2巻に収録されたものを底本に、バルトリドの著作全集に収録されたロシア語訳も参照しています。参考文献の中にはPDFがダウンロードできるものも多いので、きになるものは探してみてください。 The Encyclopaedia of Islam, vol. 2, Москва, 1927, 963-965. Бартольд “Коканд”, Сочинение...