バルトリドによるコーカンド・ハーン国史概説和訳(The Encyclopaedia of Islam)

はじめに

約1年ちょっとぶりの更新になりますが、前回までとは違って専門に関わる内容を投稿したいと思います。

と言っても自分のオリジナルな文章ではなく、約90年前に出版されたコーカンド・ハーン国史の概説の和訳です。具体的な内容については訳文の方を参照していただきたいですが、コーカンド・ハーン国についての簡単な説明は、高校世界史レベルだと「ティムール朝滅亡後の中央アジアのウズベク3ハン国の1つ」と説明される国家だったと思います。

以下、簡単に補足しておきます。



コーカンド・ハーン国は、フェルガナ西部で勢力を持っていたウズベクの遊牧集団を中心に成立した国家で、1709年ごろから1876年まで存続し、最盛期には、現在のウズベキスタンのフェルガナ盆地を中心に、タジキスタン、キルギス、カザフスタンおよび新疆ウイグル自治区の一部を含む地域に勢力を及ぼしていた。


王朝の創始者はシャールフ・ビーと呼ばれる人物で、ウズベクのミン部族の出身である。彼の名前をとって、コーカンドの政権の支配者の血統をシャールフ統(Shahrukhid)と呼ぶ研究者も(Levi S C. The Rise and fall of Khoqand Khanate: Central Asia in the Global Age 1709-1876, University of Pittsburgh Press, 2017.)。


コーカンド・ハーン国の最初の君主の称号は「ビー」であり、通称であるコーカンド・ハーン国に冠されている「ハーン」という称号とは異なっているが、この辺りの経緯は、バルトリドの説明を参照。(後日私の方でこの辺をブログにかけたらいいなと思います。また時間がかかりそうですが......)。


本記事の訳文は、イスラーム百科事典(The Encyclopaedia of Islam)2巻に収録されたものを底本に、バルトリドの著作全集に収録されたロシア語訳も参照しています。参考文献の中にはPDFがダウンロードできるものも多いので、きになるものは探してみてください。


The Encyclopaedia of Islam, vol. 2, Москва, 1927, 963-965.
Бартольд “Коканд”, Сочинение том. 3, 1965, 462-466.(『バルトリド全集 第3巻』)


—本文—


963p
コーカンドKhoḳand、アラビア語でKhuwāḳand、のちにKhuḳand(有力な語源としては、khūḳ+kandで、「雄豚の街」)は、フェルガナ(『イスラーム百科事典』, ii., p. 64, p. 66)の都市であり、この都市はヒジュラ暦12世紀(西暦18世紀)にウズベクの独立国家の成立に際し首邑となった。最初の君主シャールフ・ビーの即位は砦の建設に続いて行われた。彼の息子のアブドゥルカリーム・ビー(d. 1746)によりエスキ・オルダ(古い宮殿)と呼ばれる新たな城砦が建てられた。アブドゥルカリームと彼の甥イルダナ・ビーは、のちのブハラ・ハーンとなるアタリク・ムハンマド・ラヒーム(d. 1759)を扱った歴史書の中にもしばしば登場する(『イスラーム百科事典』i., p. 782; Muḥammad Wafā Karminagī, Tuḥfat al-Khānī, M. S. of the Anat. Mus., c. 581b, 33b, 145b.)。カルムクの帝国(ジューンガル)が崩壊し、清朝がフェルガナの近くまでその領域を広げた際(1758年)、イルダナもまた清朝の宗主権を認めざるをえなかった。この事件に関する清朝の記録を、クラプロスがTai ts’ing yi t’ung čuから引用している(Klaproth J. Magasin Asiatique, i., 1825, p. 81)。イルダナはのちに中央アジアのムスリムの支配者たちと同盟を結び、清朝に対抗するための援助を要請した。この同盟は、アフガンのアフマド・シャーが1763年にコーカンドとタシュケントの間に軍を率いて現れたにもかかわらず、何も結果をもたらさなかった。しかし、イルダナは、別の目的のためにすぐに自らの野心の追求をやめることとなった。アブドゥルカリームの孫のナルブタ・ビー(r. c. 1188-1213=1774/5-1798/99, Зимин Л. Протоколь Турк. Кружка Люб. Археологии, xviii. С. 102; Валидов, Протоколь Турк. Кружка Люб. Аркеологии, xx. С. 112)もまた、名目上は清朝の宗主権下に入った。この即位初期の数年間について、ロシアの軍人であるフィリップ・イェフレモフ Филипп Еремовの旅行の際の記述がある。彼は1774年にクルグズの虜囚となりブハラに売り飛ばされ、1782年にインドとイングランドを経由してロシアに帰還した人物である。彼の旅行記(Ф. Ефремов Странстрование в Бухарии, Хивие, Персии в Индии, СПб 1794, С. 59)によれば、ナルブタはすでに”中国人によって”「ハーン」の称号を与えられており、ブハラと敵対して清朝と同盟を結んでいた。首都における傑出した建築物に言及はない(マドラサイ・ミールはナルブタの治世に建てられた)一方で、高い塔(おそらくミナレットのこと)については、280フィート(約85m)以上のものがマルギランの市場にあったと説明されている。フィリップ・ナザロフによれば、この「塔」は50ヴェルスタверста(約50km)離れたところからも見えたという。
 ナルブタの二人の息子、アーリムとウマルは、後述するようにコーカンドの都市と国家の真の建設者であったといえよう。彼らの在位時期(1213-1237=1798/99-1821/22)は、確実にはわかっておらず、アーリムがクーデタによって殺害され、ウマルが即位した年については、史料ごとに異なる。『シャールフの歴史 Ta'rīkh-i Shahrūkhī』(Мулла Нияз Мухаммед Хоканди, Таарихъ Шахрохи, изд. Пантусов, Н. Н., С. 106(パントゥーソフ版: 106))によれば、ウマルの死亡年は1237=1821/22年である(史料中では「十二支の馬の年」と記されており、これは1822年に相当する)。ナリフキンは、『選史 Muntakhab at-Tavārīkh』の記述に従い、アーリムが1232年=1817年まで殺害されていなかったとする(Наливкин(ロシア語オリジナル), 101; Nalivkine(フランス語訳), p.  124)。一方で、ナリフキンは別の箇所(Наливкин, С. 185; Nalivkine, p.  228)で、ウマル・ハーンが1231(1815/16)年にコーカンドに建てたモスクについて言及している。1813/14年の冬にコーカンドに滞在したロシアの通訳であるフィリップ・ナザロフは、コーカンドの支配者をアミール・ワリアミーAmīr Walliamiと呼んでる(Назаров Ф. Записки о некоторых народах Средней Азии, Санкт-Петербкрг 1821, С. 50)。これはおそらくWalī al-Ni’amīのことで、クラプロートがいうWalī Miyanīではない(Klaproth J.  Magasin Asiatique, i. 1825, p. 81)。ナザロフはこの時期の支配者はわずか12歳だったといい、これはウマルのことを指しているため、より年長だったアーリムではないと考えられる。アブドゥルカリーム・ブハーリー(ed. Schefer C. Histoire de l’Asie centrale par Mir Abdoul Kerim Boukhary. Afghanistan, Boukhara, Khiva, Khoqand, depuis les dernieres années du règne de Nadir Chah (1153), jusqu’à 1233 de l’hégire, Paris 1876p. 102)によれば、この使節とその結果(ペトロフスクでロシア軍によってコーカンドの使者が殺害されたこと)は、ウマル・ハーンの治世に起こった。加えてアブドゥルカリーム・ブハーリー(99)によれば、アーリムはすでに1224年に殺害されているというが、我々がその日づけを1225年ジュマーダー第1月(1810年)としているように(Протоколы Турк кружка. люб. арх, iii. С. 165)、このアブドゥルカリーム・ブハーリーの説は受け入れられない。したがって支配者の交代は1810年から1813年の間に起こったと考えられる。
 現存する最も古い文書では、アーリムの治世は1213(1798/99)年と記録されており、この時はまだアーリムは自信をハーンと称してはおらず、のちにハーンあるいはアミールの称号を伴って独立した支配者として現れた。タシュケントを征服して以降、彼の勢力はブハラのアミールに匹敵するほどになった。1814年のウマルの時代(Назаров; Наливкин С. 110; Nalivkine p. 134)には、キルギス(カザフ)草原のトルキスタン市をコーカンドの支配下に置いた。
964p
ウマルはそのすぐ後で、アミール・アルムスリミーン(ムスリムたちの長)の称号を称した。アーリムとウマルの時代には、ウラテパの領有権をめぐってブハラとの間に幾度か戦争が起きた。この都市は実際にロシアの征服まで両者の紛争の種であった。これらの敵対の記憶は、未だに子供達の「ウラテパは私のもの!」という掛け声とともに行われる遊びに残っている(Жизнь Национальностей, i., 1913, С. 195)。
 ウマルの内政は彼の前任者(アーリム)からかなり異なっていた。アーリムは、他の多くの中央アジアの支配者たちとおなじく、ウズベクの部族の勢力を削ごうとし、そのためにカラテギンやダルヴァーズなどの山岳地域の住民からなる傭兵部隊で自身の周りを固めた(Ta'rīkh-i Shahrūkhī, 42)。この貴族たちに対する戦いは、どこであれしばしば聖職者階級との戦い、特にダルヴィーシュの教団に対する戦いと結びついた。コーカンド・ハーン国史を記述した歴史家たちはこのことについて記す際、アーリムを神を恐れない暴君(ザーリムẓālim←アーリム‘Ālimと韻を踏む)として説明する。一方で、彼ら歴史家たちは、兄のアーリムの殺害によって王座に就いたウマルの敬虔さを讃えている。ウマルは、現在のコーカンドの主要なモスクであり有名なマドラサ・イ・ジャーミーを建設した(Schwarzによる写真, Turkestan, Freiburg 1900, p. 224)。ウマルはまた、詩の愛好者であり、自身もアミールというペンネーム(takhalluṣ)で詩作を行った。ハーン自身や官吏たち、愛好者たちによる韻文は、HartmannによってMajmū’at al-Shu’arā’と名付けられたアンソロジーにまとめられている。ウマルはおそらくシャフリ・ハーン(アンディジャンの西方、「ハーンの街」を意味する)という街とカラダルヤから引かれたシャフリ・ハーン・サイという灌漑水路(現在では110kmの長さを持つ)の建設者だと考えられる。この地域は、シャフリ・ハーン・サイによって6000平方マイルに水が供給されている。フェルガナの灌漑は、シャフリ・ハーン・サイの開削によって完全に変貌した。
 ウマルの息子で後継者であるマダリ(正確にはムハンマド・アリー)は、即位時には12歳であった(別の史料によると14歳)。彼の治世の前半は、コーカンドの国家が最も強く広大になった時代であった。南では、現在のブハラ(帝政期の区分)に属するカラテギン、ダルヴァーズ、そしてクーラーブを征服し、北東ではカラ・キルギスや、カザフの大ジュズと中ジュズの一部から税を取り立てた。ハーンの代理人たちは、イリ川流域で遊牧生活を送っていた大ジュズのもとにも現れた(『イスラーム百科』事典同項目参照)。カシュガリアにおけるジャハーンギール・ホージャの反乱(1826年)は、コーカンドの援助を受けていたものの、失敗に終わった。にもかかわらず、ハーンの役人は、清朝政府から「アルティシャフル」、つまりアクスウ、ウシュ・トゥルファン、カシュガル、ヤンギシャフル、ヤルカンド、そしてホータンで税を徴収することを認められた。マダリ・ハーンの名を冠した、最も大きなマドラサの一つが建てられたコーカンドのように(Остроумов Исламоведение, Ташкенд, 1914, С. 185)、タシュケントは著しい繁栄を遂げた。1835年からタシュケントのベグレルベギ(州長官)は、国家の北方の全地域の統治を任された。巨大なベグレルベギ・マドラサはこの時代の記念碑であるといえよう(Остроумов М. Исламоведение, Ташкенд, 1914, С. 188)。タシュケントの巨大なハーン・ハリーク運河の開削もこの時代のものである(Протоколь Турк. Кружка Люб. Арх, iii. С. 175)。
 彼の時代の著しい領域拡大にもかかわらず、ハーンの権威は確固たるものではなかった。彼の残忍な人生(性格?)とその冷酷な統治は、広く不満を募らせた。ブハラ・アミールのナスルッラーは、コーカンドの民衆に請われてこの残忍で神も恐れない暴君の支配を終わらせたと言われている。コーカンド軍は完全に打倒され、首都は敵に占領された(成立以来初めて)。マダリは逃げる途中で殺害された(1258=1842年)。征服者たちは同じ年に追い出され、シールアリー、アーリムとウマルのいとこが即位した。しかし、ロシアの征服まで、国内の安定はいかほどの期間も果たされなかった。シールアリーの治世(1842-45)と彼の息子フダーヤール(1845-58、1865-75)とマッラ(1858-62)、およびその他の短命の君主たちの治世は、終わらない混乱と、キプチャク部のウズベクと「サルト(土着の定住民)」の間の血みどろの闘争の時代であった。フダーヤールは、彼がまだ幼少のときにキプチャクの首領ムスルマンクルによって玉座に登った。キプチャクはサルトを首都から追い出し、灌漑水路を押さえた。サルトたちは、定められた額を払うことによってようやく必要な量の水を取ることを許された。1269(1852)年にフダーヤールによってムスルマンクルが追放され、殺害された。この結果、土地は再びサルトたちのものとなった。その後、マッラはキプチャクの指示を受けてサルトから奪った土地を再びキプチャクに与えた。追放された王位請求者等は、ブハラに亡命する場合が多く、こうした状況の中で、ブハラ・アミールのナスルッラーは1275(1858)年にホジャンドにまで進出する機会を得た。彼の後継者のムザッファルは、1279(1862)年と1282(1865)年にコーカンドを占領した。国内及び国外の敵対者との戦いは、中世の残酷さを以って行われた。マダリの義父であるムハンマド・シャリーフ・アタリクは、タシュケントの支配者であったが、シールアリー・ハーンの命により馬の尾に縛り付けられて草原を引きずり回された。フダーヤールによる1265(1848)年のウラテパ征服後、殺害された敵の首により塔(Kelle-minār)が築かれた。
 この全てにもかかわらず、コーカンド・ハーン国はロシア帝国の制服まで以前の領域を保持していた。ロシア軍はシルダリヤの上流では河口から約200マイルの地点で1850年以降コーカンドのハーンの軍勢と遭遇し、南東では1860年からチュー川とイリ川の間で遭遇した。これらの地域は全て、農耕の維持にも責任を持っていたタシュケントの支配者の勢力圏であった。支配者のミールザー・アフマド(1853-58)は、トルキスタン市からチュー川(『イスラーム百科事典』同項目参照)に至る灌漑を行ったとされる。タシュケントの支配権がブハラ・アミールの手に移ったのは、1865年にロシアの征服が行われる直前であった。1866年以降、コーカンド・ハーン国の領域はフェルガナに限られ、名目上は、1868年のロシアとの条約の後でも後者(?)の領域で独立していた。この時代にはウルグ・ナフル水路の開削が行われ(Middendorf, Einblicke in das Ferghana-Thal, St. Petersburg, 1881, Appendix, p. xxi)、複数の建設事業が行われた(しばしば言及されるハーンのオルダ (e. g. Schwarz F. Turkestan, p 412; Масалский В. Туркестанский Край, 1913, p. 701, p. 703)、
965p
ハーンの母親や兄弟によって建てられたハーキム・アイン・マドラサやスルターン・ムラード・ベク・マドラサなど(Остроумов М. Исламоведение, С. 184))。
 民衆反乱によるフダーヤール・ハーンの廃位とそれに伴う新たな混乱の発生ののち、コーカンド・ハーン国の残りの領域もロシアに併合され、「フェルガナ州」となった。コーカンドはロシア支配の間も依然として最大の都市(1911年の統計では113,636人)であり、最も重要な交易の中心地であった。併合以降に建設された新マルギラン市(のちにスコベレフとされ、現在はフェルガナと呼ばれている)は、総督の居住地であった。最近のコーカンドは、1917年に「トルキスタン自治政府」が成立した際、政治的な局面における役割を担ったが、翌年の赤軍の勝利により「トルキスタン自治政府」は終焉を迎えた。
 

参考文献
ラテン文字文献
Klaproth J. Magasin Asiatique, i., Paris, 1825. https://archive.org/details/magasinasiatiqu00klapgoog/page/n94
Middendorf, Einblicke in das Ferghana-Thal, St. Petersburg, 1881.
Nalivkine V. Histoire du khanat de Khokand, transl. by A. Dozon, Paris, 1889.
Schefer C. Histoire de l’Asie centrale par Mir Abdoul Kerim Boukhary. Afghanistan, Boukhara, Khiva, Khoqand, depuis les dernieres années du règne de Nadir Chah (1153), jusqu’à 1233 de l’hégire, Paris 1876.
Schwarz F. Turkestan, die Wiege der indogermanischen Völker, Freiburg 1900.
Smirnow V. Collections scientif. de l'Inst. des langues orient. etc. viii., Manuscrits turcs, St. Petersburg 1897. 


キリル文字文献

Брянов А. На паснять о Фергане, Новый Маргелан, 1901.
Ефремов Ф. Странствование в Бухарии, Хивие, Персии в Индии, СПб 1794.(イェフレモフ『ブハラ、ヒヴァ、ペルシアおよびインドへの旅行』)
Коритов Н. Самозванец Пулатхан (Ежегодник Ферганской Области, том 1, 1902.)
Масалский В. Туркестанский Край 1913.

Протоколоы заседаний и сообщений членов Туркестанского кружка любителей археологии.
Тюрякулов Н. Кокандская Автономия (Сборник Статей в 4 годовшчину советской власти в Туркестане, Ташкент 1922.
Наливкин В. Краткая история Кокандского ханства, Казань, 1885.(ナリフキン『コーカンド・ハーン国史概説』) http://www.foto.kg/books/125-nalivkin-v-kratkaya-istoriya-kokandskogo-hanstva.html

アラビア文字文献
Таарихъ Шахрохи, Истрия владетелей Ферганы, Сочинение Моллы Ниязи Мухаммед, Хокандца, Изданная Н. Н. Пантусовым, Казань, 1885. (ムッラー・ニヤーズ・ムハンマド・コーカンディー(パントゥーソフ編)『シャールフの歴史』)
Muḥammad Wafā Karminagī, Tuḥfat al-Khānī, M. S. of the Anat. Mus.(手稿版)
Muhammad Qazi Vafa Karminagi. Tuhfat al-Khani. ed Mansur Sefatgol. Fuchu ILCAA. 2015.(刊本)
Ulugh Turkistān, Khoqand.












コメント

このブログの人気の投稿

私とラグマン ラグマン探訪記

プロフを作ろう!

マクニール『疫病と世界史』の雑感